織田信長

2017年1月17日 (火)

秀次が築いた八幡山城址

 去年の7月末に近江八幡山城址に行ってきました。

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 ロープウェーで頂上まで登ります。

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 うっそうと木々が茂る中を歩いて行くのですが、この日は大河ドラマ「真田丸」の豊臣秀次が切腹した後だったためか、お客さんが多かったように思います。

 おまけに雨上がりだったため、非常に蒸し暑い。

 当時もこんなに蒸し暑かったのかな・・・

 風が通らないのです。

 この蒸し暑さの中で、甲冑を着てこの山を駆け上がるのは大変だったと思います。

 こちらは村雲御所瑞龍寺山門。

3 こちらは瑞龍寺門跡本堂。
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 瑞龍寺は秀次の菩提を弔うため、彼の生母が創建したもので、京都嵯峨の村雲から昭和37年にこの地に移されたそうです。

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 本丸の石垣。

 歴史と年代を感じさせます。

 石垣は南方約4kmの地にある岩倉山より石材を運んだという記載があります。(「岩倉石工文章」より)

 1つの石自体がかなり大きい。

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 琵琶湖の眺望も素晴らしく、二の丸にあるロープウェーの八幡城址駅近くには、展望館も建設されています。

 秀吉の後継者となるはずだった秀次。

 謀反の疑いをかけられ切腹しました。

 秀次自体いろいろ言われていますが、秀次の痕跡を消すかのように一族を虐殺したのはかの秀吉です。

 それ自体が狂気としか思えない。

 これが原因で豊臣家が滅亡する原因になってしまったわけですが・・・

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2014年6月26日 (木)

信長によせて お市らが暮らした清水谷

 ここは小谷城戦国歴史資料館。

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 この資料館の奥(小谷山の西側)は清水谷と言われ、小谷城の搦手道だったと言われている。

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 この搦手道の両側には浅井家臣の武家屋敷が立ち並び、その奥にお市の方や三姉妹がいたお屋敷があったそうだ。
 お市の方はここで6年暮らした。
 平穏な幸せな生活はわずか6年だった。

 前回来た時は、東側から車で中腹まで行き(大手道)、歩いて京極丸あたりまで行った。

 小谷城から南に行ったところにある姉川。

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 ここで浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利した姉川の戦い。

 この姉川の戦いが浅井家滅亡につながる。

 信長はすぐには小谷城を攻めず、姉川南岸に横山城を築城し小谷城を包囲した。

 その3年後、諸将の寝返りや朝倉軍の撤退で、小谷城は落城した。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

小谷城戦国歴史資料館

 

  

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2014年6月20日 (金)

黒田官兵衛の先祖の地

 滋賀県長浜市木之本町にあるNHK大河ドラマ館、「黒田官兵衛博覧会」に行ってきました。

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 平日なので静かです。

 でもしばらくすると大阪からのバスの御一行様が入ってきました。

 大河ドラマのシナリオや衣装が展示されています。

 ゆかりの地の舞台は兵庫県や福岡県が中心なので展示物も少ない感じです。

 でも木之本の町全体が「黒田官兵衛」に染まってまして、町おこしをしてました。

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 こちらは大河ドラマ館前の道路です。

 この辺りが北国街道木之本町の一番古い街道のようです。

 昔は道の中央に川が流れ、馬や牛をつなぐ並木道だったそうです。

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 こちらは黒田家御廟所。

 御廟所と言ってもお墓ではないらしい。

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 歴史書には、この辺一帯が黒田家の始まりであると記録されていたが、確たる証拠がなかったらしい。

 ところが昭和48年に、この隣にある集会所の改築工事中に黒田家初代「宋清」の名前が彫られた石が出土(上写真右側の石碑)し、この地が黒田家始祖と確定されたそうです。

 左の石碑は、現当主より3代前の長成氏が建てたそうです。

 とても静かで、水もきれいないいところでした。

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 こちらは大岩山山麓にある黒田観音寺。

 初代の宗清が寄進したと言われる。

 きっと秋に来ると、秋色に色づいた山々が旅愁を誘うのでしょうね・・・

 穏やかなのんびりとする山里の風景でした。

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2012年11月29日 (木)

信長によせて 大徳寺ゆかりの寺

 20121120  大徳寺南門。

 この先の左側に黄梅院がある。

Oubaiin

 1562年に織田信長が父の供養のために春林宗俶により黄梅庵として創建されたのがはじまり。(wikipediaより)

 信長28歳の時と言うから父が亡くなって11年後、娘の徳姫を家康の子、信康と婚約させた頃になる。

 その父である織田信秀のお墓は名古屋市中区大須にある万松寺です。

 でも一部1551年創建という説もあり、こちらだと父が亡くなった年であり、信長は17歳になる。

Sangenin  こちらは三弦院。

 石田三成の廟所がある。

Sangenin2  信長との接点はほとんどないけど、秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、父・兄と共に秀吉に仕官し、秀吉が信長の命令で中国攻めで赴いたときこれに従軍した。

Houshunin  こちらは芳春院。

 加賀百万石の前田利家の夫人、まつが建立。法号をとって芳春院と名付けた。

 信長と同年代を生き抜いた方です。

  こちらは総見院。

Soukenin  信長の一周忌に法要を営むために秀吉が建てた信長の菩提寺。

 信長一族の信忠、信雄のほか、濃姫、お鍋の方、徳姫などのお墓もある。

 ここには高さ115cmの衣冠帯刀の姿をした信長の座像がある。
 目が鋭い信長像は必見です。

 秀吉の権力を象徴するような墓石に、信長の気配は感じられない。

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 2010年秋に行った総見院

 http://akiiro-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-416e.html

 

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2012年7月10日 (火)

信長によせて 波乱の戦国時代を共に生き抜く

 Arako_castle

 ここは名古屋市中川区にある荒子城。
 現在の富士権現天満宮。
 1537年15歳にして信長に仕えた前田利家が生まれたところ。
 この一帯が荒子城の跡だといわれている。

 私の信長好きの原点は、金沢にいた頃、この前田利家に会ってからかもしれない。
 10年ぐらい前にNHK大河ドラマの「利家とまつ」からさらに加熱したと思う。

 荒子の傾奇者利家が尾張の大虚け者信長に仕えたところから2人の出会いは始まるのだけれども、もともとこの2人、同じような性格だったのかもしれない。

Arako_castle2  ともあれ、利家はここから出世して金沢に百万石の国を打ち立てた。

 まつは4歳の時前田家の養女となり、以後この荒子城で育ち利家と出合った。

 やがて信長の秘書となり、片腕となり、信長の最期まで支えた人物だけれど、信長の死後は家臣たちの勢力図が大きく変わっていった。

Arako_castle3  生涯律儀で誠実だった前田利家、信長が最も信頼した家臣だったように思う。

Arako_kannon  荒子城から北に200mぐらい歩いたところにある荒子観音。

 荒子時代の前田家の菩提寺です。

Arako_kannon2

Arako_kannon3  利家誕生以前に建てられたと言う多宝塔は、名古屋市最古の木造建築物で、国の重要文化財に指定されています。

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2011年3月 8日 (火)

信長によせて 色あせない信長

 教科書に載っている信長像で、一番生前の信長に近いと言われている原本が5日から13日まで、豊田市陣中町の豊田市郷土資料館で展示されてます。普段は長興寺に保管されています。

 ※その長興寺の様子はこちらから

 原本のお披露目は5年ぶりだそうで、私はその5年前見に行きました。

 今回は徳川家康を安土城に呼んだときの祝い膳も展示されているようなのでちょっとワクワクです。

 武田勝頼を討った徳川家康を安土城に呼んで祝い膳を出すときに、下見をした信長が膳に出そうとした魚が腐っていて、接待役の明知光秀を猛烈に叱咤したというあの祝い膳です。この事件が発端になり、本能寺の変が起こったといわれています。

 案外有名な重要文化財が身近にあるもんです。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

 安土御献立の復元模型の記事はこちら

 http://mytown.asahi.com/areanews/aichi/NGY201102280018.html

 豊田市郷土資料館

 http://www.toyota-rekihaku.com/

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2011年2月18日 (金)

信長によせて 信長ミステリー

Book  2週間ぐらい前の朝刊を見ていたら、加藤 廣さんの「安土城の幽霊」が発行されたと書いてありました。

 「信長の棺」に続く第2弾。さっそく近所の本屋さんに注文しましたです。

 『信長の愛刀に宿る妖女の正体は!?』と書いてありますが、どんな展開なんでしょう・・・楽しみです。

 「信長の棺」は『本能寺の変で亡くなった信長の遺骸はどこにある?』という内容でしたが、この本を読んで私は信長の遺骸が阿弥陀寺にあるのではないかと、心底信じたのであります。

 でも当時の阿弥陀寺は南西方向にもっと広い敷地がありました。秀吉によって縮小され今の阿弥陀寺があるわけですから、現在の地にはいないと思いますが、そのあたりにきっと埋葬されたのだろうと心底思っております。

 信長がすべてを注ぎ込んで築城した安土城。果たして信長の魂はここに眠っているのでしょうか。。。

 

 

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2010年11月 4日 (木)

信長によせて 信長安眠の地

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 ここは京都上京区にある阿弥陀寺。

 唯一信長の気配があると思われるところ。

 この阿弥陀寺の住職清玉上人は信長と親交があり、遺骨を持ち帰りここに埋葬したという。

 当時は膨大な敷地であったが信長の死後、秀吉の怒りに触れ今の地に移転させられたといいます。

 普段は立ち入り禁止です。

 信長の命日である6月2日のみ一般公開される・・・と聞いていたが、門が開いていた!

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 中に入ると一人の女の方が・・・

 「すみません。見学してもいいですか?」と聞くと、「遠くからよく来てくださいました。信長公のお墓ですね。どうぞ。どうぞ。」(どうやらここのおくりさんのようです。でも遠くから来た?信長のお墓?何でわかるの??)

 門までしか見れないと思っていたのでうれしかったです。

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 境内は静かです。

 墓地に続く道の正面にお墓がありました。

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 ここが信長と信忠の廟所です。向かって右側が信長、左が信忠。

 今まで見た信長のお墓の中で一番平凡で普通のお墓に見える。墓地内は改修工事を行っていてざわついているが古い墓碑がたくさんあります。お墓の裏は住宅街。

 420余年の月日の重みを感じます。

 信長の夢は常に西へ西へ向いていました。

 『京を制するものは天下を制す』。

 その京都の親交のあったお寺で深い眠りについているのでしょうか。

   『人間50年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり

    ひとたび生をうけ 滅せぬもののあるべきや』

   『人生50年だよ。時の移り変わりに比べたら 

        夢を見ているようなもんさ。この世に生まれて すぐ死ぬさ。』

 信長がそう言っている。

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2010年11月 3日 (水)

信長のパワーを求めて京都を歩く

 仕事が休みの平日、「そうだ 京都へ行こう」と思い、新名神で西へ、西へ。

P1010666  土山のSAあたりでは寒々として雲海が見られました。

 今回行きたいところは3ヶ所。

 さて、どのくらい時間がかかるだろう・・・

 京都東で降りて山科へ。インターを降りたらなぜか渋滞しています。

P1010717  駅前のラクトの駐車場に車を止めて地下鉄で移動です。地下鉄の1dayフリーチケットを買いました。

 京都の地下鉄は事故防止のためか線路際に扉があります。名古屋の環状線にも同じような塀がありますが、天井まで高いと圧迫感があります。

 市役所前で降りて本能寺へ。

 市役所の建物は昭和初期の作りだとか。大正ロマン的風情がありますね。

 烏丸御池で乗り換えて北大路へ。バスターミナルから大徳寺へ行きます。

 さすが、京都。ここは外人の人が多いです。

P1010687  総見院に行った後、奥にある芳春院へ。

 ここは前田利家夫人おまつの方が建てた前田家の菩提寺です。

 公開されてなかったのが残念だったのですが、京都らしいやさしい感じのお寺でした。

 北大路にもどって地下鉄で鞍馬口へ。路地を歩いて阿弥陀寺へ行きました。

 寺町通りというのでもっと人通りがあるのかと思ったけど静かです。

P1010709  阿弥陀寺の隣のお寺に一風変わった建物が・・・

 十念寺と言うそうです。

 「西山浄土宗に属する寺」と書いてありました。

 うちの地元のお寺と同じ宗派です。

 賀茂川を歩いて出町柳へ。

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 雨がポツポツ降ってきました。賀茂川のほとりっていいですね。

 近くにこんな所があったら毎日、ワンの散歩に来るのに・・・

 でもこの感じ、金沢の犀川の雰囲気に似ています。

 京阪電鉄で三条で乗り換えて山科まで戻ってきました。

 行きたかった3ヶ所はゆっくり見学でき、地下鉄もバスも待つことなくすんなりと乗れ、時間のロスがありませんでした。

 若い頃、仕事で京大に行った時タクシーで移動しましたが、河原町あたりはこんなきれいではなかった。京都はきれいになりましたね。

 車で2時間。新幹線で来ればもっといろんなところが見れて、日帰りできそうです。

 

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2010年11月 2日 (火)

信長によせて 後継者の秀吉のアピール

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 ここは臨済宗大徳寺にある総見院。

 信長の一周忌に織田信長の菩提を弔うため秀吉が創建したという。

 ちょうど秋の特別公開をしていた。

 本堂には重要文化財の高さ115cmの衣冠帯刀の姿をした信長の座像がある。頭が小さく、目が鋭い信長の容姿をよく捉えているという。

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 本堂の裏には信長の廟所。

 正面真ん中が信長、右側は長男の信忠、左は次男の信雄のお墓です。

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 秀吉が自分の権力を世間にアピールするために行ったような大葬礼。どこまで本当だったのかその真偽はわかりません。

 ただここにも信長はいないような気がします。

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