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2012年9月 5日 (水)

奔別と幾春別の違い

 「奔別と幾春別の違いを教えてください。」

 いつもブログを見てくださっている方からの質問です。

 私もいまいちよくわかりません。

 何かに書いてあったのには、北炭幾春別鉱が開業するため、三笠からの鉄道が引かれたということなので、北炭幾春別鉱の方が奔別より先にできたんですよね。

 その後、住友奔別鉱の路線が引かれ、幾春別鉱が閉山して奔別が残った。

 でしょうか。。。

 ご存知の方、教えてくださ~い!!

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北海道三笠市奔別・幾春別」カテゴリの記事

コメント

はなさん、おはようございます。
ご質問の件は良く解りません、お役に立てませんがYouTubeで素敵な映像を見つけました、ご覧になったことありますか?
http://www.youtube.com/watch?v=GT683PmvkW0

投稿: にゃん | 2012年9月 6日 (木) 08時23分

 奔別(ぽんべつ)の方が幾春別(いんしゅんべつ)より古いのかどうかは分かりませんが、何れもアイヌ語です。ぽんべつは、小さい川という意味のようです。いくしゅんべつは、熊が越える川とかを意味するようです。ぽんべつ川の支流がいくしゅんべつ川です。アイヌの人々がなづけた地名ですから、新旧ではわからないと思います。昔といっても昭和22,3年頃は、しくしゅんべつ川からぽんべつ川に鮭の群れが遡上したと母が言っておりました。今では、ダムが出来、とても無理です。

投稿: 村上洋一 | 2012年9月 6日 (木) 08時57分

にゃんさん おはようございます。

you tube見たことなかったです。
ずっと歩いたところが懐かしいです。
奔別もこのくらい住宅が残ってくれていたら、どんなにかうれしいのに・・と思います。
幾春別も行くたびに建っていた家がなくなっているような気がします。
若い人は出て行ってしまい年寄りだけが残って、いずれ家がなくなっていくのでしょうね。
とても悲しいことですけど・・・
「ししさん」のコメントも載っていましたね。^^

投稿: はな | 2012年9月 6日 (木) 09時25分

村上さん おはようございます。

奔別の鳥居沢に大正時代に立てられた馬頭観音があります。
ということは、その人たちは鉱山で働いていたかは不明ですが、大正時代には奔別には人がいた。
歴史から見ると北炭幾春別鉱山が古いようですが閉山後、幾春別に住んでいた人たちは住友奔別鉱に職場を変えたかもしれませんね。

私は幾春別には残るものがあって、なぜ奔別には残るものがないのか。
それが寂しいです。

残すと廃墟化してとんでもないことになるのはわかっていますが、幼い頃に通った学校も、あこがれの目で見た映画館の映画も、きのこ採りに行った橋も、みんななくなって静かに山に帰っていく奔別が悲しいです。

ずっと知らなければよかったかもしれません。
でも5年連続して訪問して、原生化する1年の重みは非常に大きいです。

たかが3年しかいなかった地なのに、友達もたいしたいるわけでもなく、いた頃の思い出もたいした残っていないのに、何がそんなに私をひきつけるのかわからないのですが・・
きっと現在と過去のギャップがあまりにも大きすぎて、ショックなのかも知れません。

投稿: はな | 2012年9月 6日 (木) 09時51分

 はなさんへ
 なぜ、三笠市の奔別に引きつけられるのでしょうか。幾春別炭坑の話しを少しします。幾春別炭坑は、幾春別川の上流に向かって右手に抗口があったようです。それも、戦後直後まで…。丁度、桂沢湖に向かう少し手前ですが、抗口はいまでも残っているはずです。記憶も薄れてますが、昭和30年前後に幾春別炭坑と弥生炭坑の坑内が開通し、一本で結ばれました。以後、現在の巨大な縦坑が完成し、ぽんべつ炭坑になったようです。ぽんべつの一番奥の集落を本沢と言っておりました。その手前が中ノ沢、そして鳥居沢と言っておりました。馬頭観世音が残っていることはしりませんでした。幾春別が残り、奔別が廃墟化した経過を説明します。幾春別に住まわれていた方は、住友石炭関係者は皆無で、ほぼ、商業とか、建設関係に従事していた方です。奔別炭坑閉山と共に、ほぼ全員が居を離れ、離ればなれとなりました。私の父も同じでした。昭和46年に住友奔別炭坑が閉山し、札幌へ出てきたものです。
 私の知っていることは、お話したいと思います。奔別はとてもよいところです。

投稿: 村上洋一 | 2012年9月 6日 (木) 11時00分

村上さんへ

幾春別にも山手町とか、中島町とか鉱山に従事とていた方はいたと思います。
すべての人が従事をしていたのであれば、居を離れて廃墟化するのはわかりますが、幾春別の中島住宅などはまだ残っていますよね。
ということは違う職に就いたということですよね。
奔別に住んでいて閉山後、幾春別に移り住んだという人もいると聞いてます。
奔別に住んでいた人は90%住友奔別鉱に従事していた。残りの10%はそれに関わる人たち。学校の先生だったりお店の人たちだったり・・・
基がつぶれれば周りが崩れるのは当たり前ですもの。
まして幾春別より奥だったのが、災いしているかもしれませんね。

奔別は確かに「いいところ」なんですが、私的にはちょっと違うんですね。
写真を撮っていると昔の家もたくさんの人の声もするような・・
昔の風景を撮っているような気がしてくるのです。
なんて言っていいのかわからないのですが・・・
村上さんは毎年ずっと行かれているようですが、どんな印象を受けますか?

幾春別鉱は今回行った錦橋を渡って、幾春別川を桂沢方面に上って行けばきっと見ることができると思います。
(博物館前にあった案内板に載っていました)
行くなら春先。それなりの格好で。
一度は見て見たいと思っています。

投稿: はな | 2012年9月 6日 (木) 15時37分

幾春別と奔別の違いを知りたい者です。
45年前どうやら私は奔別旭町に住んでいた様なのですが、姉が幾春別小学校に通っていました。普通なら奔別小学校と思うのですが・・・?
その謎が解けません。

投稿: 山下アキラ | 2012年9月 6日 (木) 17時20分

山下さんへ

旭町って上川端のロータリーの上、ししさんが言う住友奔別の事務所があったところですよね?
山下さんは錦町に見えたのではないのですか?
旭町→幾春別小学校・・・
確かに校区外ですね・・・
なぜでしょう。。。
ししさ~ん!!教えてくださぁ~い!!

投稿: はな | 2012年9月 6日 (木) 19時20分

どうやら私は、奔別旭町に住んでいて、錦町のおばあちゃんの家に週に2、3回遊びに行っていたので、勘違いをしていた様です。ごめんなさい。

投稿: 山下アキラ | 2012年9月 6日 (木) 22時41分

山下さんへ

※上記の文章、これ以下は個人情報が入っているのでcutいたしました。
すみません。

そうでしたか。
では錦町に見えた方がおばあさんで、「宮崎トヨ先生」だったということですね。
宮崎先生は整子さんの担任だったと言ってましたね。

では山下さんは旭町生まれということですね。
旭町、ロープが張って上れないのですよね。
一度見てみたいと思うでしょう?
ししさんも言ってました。
私も行ってみたいひとりです。
今度みんなで業者に交渉しに行きますか!
「見せてくださ~い!!」って^^

投稿: はな | 2012年9月 7日 (金) 07時27分

奔別は炭鉱町で幾春別は炭鉱でなく店がたくさんある町って感じでした。
奔別に居た時は配給所とひき売り(三輪トラック)しかなかった。
だから幾春別にプラモデルなんか買いにいった思い出があります。

幾春別に住んでる人が奔小に来てた記憶もあるんですが、はっきりしません。

投稿: | 2012年9月 7日 (金) 17時56分

匿名さんへ

そうですね。
幾春別に比べたら奔別は何にもありませんでした。
それでもこれと言って不自由することはなかったように思います。
でもおもちゃはなかったですね。
私はどこで買ったんだろう・・・
きっと幾春別で買ったんでしょうね。
奔別に居酒屋、食堂なんてあったのでしょうか?
私は全然覚えがありません。

投稿: はな | 2012年9月 7日 (金) 19時50分

↑名前忘れました…すいません。
奔別には居酒屋とか食堂は1件もなかったと思いますよ。
鳥居沢のほうに駄菓子屋さんみたいのがあったような気がするんだけど…。
三叉路を左に行って、右にカーブしたとこなんだけど…ちがうかな?

投稿: hokepie | 2012年9月 7日 (金) 21時03分

今頃、何を言ってるの!と思われますが、はなさんは幾春別、奔別、の何処に住んでいたのですか?
45年前の住所と今の住所の名前は同じなのですか?

投稿: 山下アキラ | 2012年9月 7日 (金) 23時17分

hokeoieさんへ

おはようございます。
たぶんhokepieさんだと思ってました。^^

やっぱり居酒屋、食堂なかったですよね。
私も覚えがないです。
(ほとんど覚えてないのですけど・・^^)
駄菓子屋さんはあったようですよ。
「みつわやさん」?だったかな。。
整子さんが教えてくださいましたが、違ってたら整子さん、コメントください!

投稿: はな | 2012年9月 8日 (土) 07時45分

山下さんへ

ホント!『今頃、何を言ってるの!』です。。。^^

私は奔別の川沿町にいました。
現在は番地がないだけで町名はいっしょだと思います。

でも以前コメントを下さったAさんは、川端町の三叉路から映画館側に行く道の左側に住んでいたそうですが、住所が「北海道三笠市字喜別川端町」でした。
「奔別」ではなく「喜別」です。
なぜなのかはわかりません。
これで「ぽんべつ」と読んだのかも。
町名は今も変わらないと思います。

投稿: はな | 2012年9月 8日 (土) 08時00分

私は小3まで奔別の中ノ沢、小4まで幾春別に住んでいました。
中ノ沢の家の玄関にはどういう訳かアイスクリームのボックスが置いてあって売っていました。
幼かった私はよくつまみ食いして叱られたものです。
多分皆さんが言われるとおり、奔別では何か買うのも不便だったせいでしょう。
幾春別に買い物や食事に行くのに「市街に行く」と言ってました。
岩見沢に行くとなると嬉しくて堪らなかったですね。

投稿: にゃん | 2012年9月 8日 (土) 08時06分

にゃんさんへ

にゃんさんは小3で奔別から幾春別に移ったそうですが、小学校も奔小→幾小に転校したのですか?

私は買い物に日本商事ストアと川沿町坂下にあったお店以外行った記憶がないので、売店があったことも覚えてないです。
でも病院、映画館があったあたりに郵便局があったような記憶が・・・
山下さんが送ってくれた冊子で確認はできたのですが、場所が思い出せないです。

岩見沢には行きました。
駅前の商店街がすごく繁盛していた。
年の瀬になると両親と札幌の二条市場に買出しに行ったのを覚えています。

投稿: はな | 2012年9月 8日 (土) 08時28分

幾小に転校しました。
ご存知の通り奔小と幾小は幾小のグランドを挟んで隣同士でしたから、どうして転校?別に良いじゃんって気持ちでしたね。
その幾小も一年もしない内に芦別市に引っ越しましたので思い出は殆どありません。
郵便局は確か日本商事の通りの本沢側の上り坂付近にあったような気がします。
局長の息子さんと同級生で、芦別に引越しした後、高校生になってから同じ市内の他校でしたが偶然再会して驚きました。

投稿: にゃん | 2012年9月 8日 (土) 08時42分

にゃんさんへ

やっぱり転校ですか・・・
隣同士でも転校となるとガラッと変わりますね。
近場だから友達には会えるでしょうけど。

郵便局は病院側ではなかったのですね。
反対側にあったんだ。
以前にゃんさん言ってましたね。
部活の対抗試合に行ったら再会したって。
世の中狭いです・・・

山下さんへ

にゃんさんも隣同士ながら転校したそうなので、山下さんのお姉さんは理由があったのでしょうね。
やっぱり校区外になるようです。

投稿: はな | 2012年9月 8日 (土) 09時16分

やっぱり、奔別、幾春別の住所どうりの小学校なのですね。ムムム謎は深まりけり。

投稿: 山下アキラ | 2012年9月 8日 (土) 10時13分

奔別の駄菓子屋さんは「おとうふやさん」
と、言っていました。私が小学生の頃はもうお豆腐をつくっていませんでしたが
その昔はお豆腐を作っていたみたいです。
夏はプールの帰りにかき氷も食べました。
以前は川端町の三叉路を映画館の方に行く途中の左側にあったのですが、いつの頃かプールの近く(ストアの手前)に、隣にあった美容院と一緒に引っ越したのです。
あと郵便局もあったけど交番もありましたよ。

投稿: 整子 | 2012年9月 8日 (土) 13時59分

山下さんへ

住所どおりだったと思います。
でもなんせ3年間なので、はっきりしたことはわかりません。
お母さん、ご存知じゃないですか?

それと最近知ったのですが、奔小も幾小も校舎が横道道路いっぱいまできてたのですね。
知らなかったです。

投稿: はな | 2012年9月 8日 (土) 14時39分

整子さんへ

「おとうふやさん」でしたか!
ありがとうございます。
hokepieさん、いいかげんなこと言ってごめんなさい!
美容院は移転したと聞いてましたが、駄菓子屋さんもですか!?
う~ん・・あまり覚えないのですよね。
プール自体廻りに家が建ってなかったように思うのですか・・・

えぇ~!交番があったの!?
それは初耳。
郵便局辺りにあったのですか?
そう思うと何でもあったんだね。
銀行はないですよね?

投稿: はな | 2012年9月 8日 (土) 14時49分

そうでしたか、駄菓子屋さんはおとうふやさんと呼んでましたか。
覚えておきます。

川端町に床屋さんがありませんでしたか?
刈上げで天花粉を塗られた記憶があるんですけど…。

川沿の坂を上がったとこの売店は「配給所」って覚えてました。

中ノ沢か本沢かどちらかだと思うんですけど、スキー場があったの覚えてますか?
体育の授業でも行きました。

それから幾春別のこと「しがい」って言ってました。
本州のことは内地だけどね。

投稿: hokepie | 2012年9月 8日 (土) 21時18分

hokepieさんへ

私は覚えがないのですが、川端町の床屋さんの近くにまんみさんが住んでいたと言ってましたね。

中ノ沢、本沢のスキー場ですか?
行ってないです。
桂沢のスキー場には授業で行きました。
中ノ沢、本沢にスキー場があったのですね。

幾春別は全盛期にはデパートもあったようなので、奔別からしてみれば別天地だったのでしょうね。

投稿: はな | 2012年9月 9日 (日) 07時46分

整子さんの言われるとおり、交番ありました!
小学校1、2年生の頃に5円を拾って交番に届けた覚えがあります、自分で言うのもなんですが今思うと可愛いですよね!
もう45年以上前のことなのに、変なこと覚えてるものです。
あと病院の前が公園?になっていて、石で出来たカエルやカメなどの置物があって、乗って遊んだような記憶があります。
でもこうして懐かしむ故郷があるっていうのは、ちょっとせつなくなりますが幸せですね。

投稿: にゃん | 2012年9月10日 (月) 08時14分

はなさんへ
 はなさんの問いかけからこのようにコメントが広がりを見せてたのは、はなさんの素朴さが文面に表れているからと思います。どうも、私の身内にはなさんを知る者がいるように感じます。さて、三笠市ぽんべつのこと、皆様が記憶を辿り、要所要所の話しをされ、とても興味深く拝見させて頂いております。とてもうれしい限りです。川端町と川沿町のことを少し触れます。川端町は大きく言って3カ所に分かれていました。住友石炭の職員住宅で、川副所長さんらは一戸建ての高級住宅に住まわれておりました。近くに職員用の保養施設「住友倶楽部」がありました。ですから「はなさん」は職員さんのご家族ではなかったか…。生協やプールのあった付近の職員は下級(ちょっと失礼か)職員住宅だった覚えがあります。私は、坑内で働く父の息子でしたが、命がけで仕事をしている父たちをみて、誇りに思っていました。長々とすみません。ところで幾春別の「更級そば店」をご存じですか…。大正時代の雰囲気を醸す、太めの更級そばです。土日曜日は、味を知った客でごった返しています。おいしいですよ。一度ご賞味ください。(築7.80年と思います。)

投稿: 村上洋一 | 2012年9月10日 (月) 08時49分

にゃんさんへ

おはようございます。
交番は映画館の横にあったのでしょうか?
昭和52年の写真で見ると、グラウンド側に建物が残っているのですが、これですか?

病院前は上り坂の広場になっていたのだと思ってました。
病院は平屋建てで玄関前に白樺の木があって、玄関辺りが時計台のような三角屋根になっていませんでしたか?
板張りの廊下を玄関から土足で入って行ったような・・・
玄関から左に行くと病室だったような気がするのですが・・・
サナトリウムのようなイメージが残っています。
どなたか知っている方教えてください。
非常に気になります。

投稿: はな | 2012年9月10日 (月) 08時58分

村上さんへ

おはようございます。
すごい反響ですね~!
私もビックリです。
それだけ奔別や幾春別に関心のある方が多いということですね。

奔別と信長のために立ち上げたようなブログなのですが、奔別は心にとどめておこうと思っておりました。
同じような思いを抱いたいる人がたくさんいるということが非常にうれしいです。

川端町に職員の保養施設があったのは知りません。
どんな娯楽品が置いてあったのでしょう?

幾春別のそば屋さんは行きました。
1回しか行ってないのですが、奔別に行くたびに前を通るのですが、市外ナンバーの車がいっぱい止まっています。
話に聞くと私たちが住んでいた頃からあったと言ってました。
当時はイスがもっと背丈があったと。
私はこのお店、全然覚えてないのですが、こうやって残っているものがあるのはうれしいですね。

投稿: はな | 2012年9月10日 (月) 09時20分

はなさんへ
 職場なので、結構、ゆったりとはなさんのブログを楽しく見させて頂いてます。病院のことを少し、触れます。ほかに知っている方がいるかも知れません。住友奔別病院と言い、民営です。玄関は一カ所で三角屋根になっいて、白樺が生えていました。正面は受付、左右の科別の診察室があり、病棟は左側廊下を渡っていくと二、三回建ての病室がありました。病院の向かいは映画館、映画館の前に公園近くに消防署、交番がありました。また、映画館の川側に野球場があり、住友奔別は全道優勝し、社会人全国大会に出場した記憶があります。
 また、住友倶楽部は、職員の保養施設で、宴会とか、会議の場所として使われ、一部宿泊施設があったように覚えています。内庭には、池があり、高級魚が放たれていた。施設内は投じても水洗便所で近くの奔別川に垂れ流していた。(今では大問題ですね。)その下に弓道場も敷設されいた。
 そばがお好きなようですね。知っていて安心しました。
では…また。

投稿: 村上洋一 | 2012年9月10日 (月) 09時50分

村上さんへ

やっぱし三角屋根の病院でしたか・・・
当時としてはすごくハイカラなイメージが残っていました。
玄関入いると薄暗いイメージで、人の出入りが多かったように思います。

消防署もあったのですか!?
ホントになんでもあったのですね。
私の知らないことがいっぱい出てきます。
広場は覚えていますよ。
盆踊り会場になり、櫓が組まれていたのを覚えています。

保養施設は水洗ですか!
そのまま奔別川ですか!
川で遊んだ者には言葉がありませんね。
でも川はきれいだったような気がします。
今の幾春別川は何であんなに茶色いのですか?
桂沢ダムの造成の影響ですか?
絵の具を流したような色をしています。

投稿: はな | 2012年9月10日 (月) 11時32分

私の父は住友建設の社員でした、立坑を掘り石炭層が出てくるとその立坑を石炭会社に売るんだ!って言ってました。
なので奔別に住む前は築別炭礦(道北)に住んでいました。でも、私が生まれたのは福島県いわき市です、父が常磐炭鉱を掘っていたのでしょう?

投稿: 山下アキラ | 2012年9月10日 (月) 22時34分

交番は本沢に向かう通りの左側にあったような?右側に郵便局?
何せ小3までの記憶なので可也曖昧です。
村上さんがご存知なのでは?
病院で一番印象に残っているのは玄関横にあった靴を洗う所ですね
水が張ってあって柄のついたブラシが置いてあったのを覚えています。
知らないもの同士でも共有する話題でこうも盛り上がるんですね。
でも元々同じ場所で同じ時を過ごしていたのだから当然かも…。

投稿: にゃん | 2012年9月11日 (火) 08時00分

 はなさんへ
 ブログが落ち着いた雰囲気ですね。幾春別川の濁りについてお話します。上流は、ダムに突き当たるのに、変だとお思いでしょう。このダムは、ダムの下部から放水するようで、幾春別川の半ばに放水口があり、ほぼここから、土色した濁流を放水しております。ですから濁っているのだと思います。
 奔別川の本沢のさらに奥へ行くと、採炭所があり、最盛期は黒色した川でした。今では清流となっていますが嘘のようです。時折、清流になることがあって、この時に例の倶楽部の水洗便所から流れた汚物が浮いていた。
 鮭ののぼる川に戻るのか…。

投稿: Yむらかみ | 2012年9月11日 (火) 10時49分

山下さんへ

山下さん、奔別出身じゃないのですか?
お母さん、ししさんと同級生の三笠高校出身じゃなかったですか?
じゃお母さんは奔別→いわき市→羽幌→奔別に戻ったのですね。
たいへんです。転勤族ですね。

私がいた頃奔別は、住友石炭鉱業㈱が運営してました。
閉山前は合理化によって奔別炭鉱㈱が運営してたようです。
私がいた頃は立抗の文字が「奔別」ではなく、「住友奔別」だったと思います。

投稿: はな | 2012年9月11日 (火) 18時50分

にゃんさんへ

公園近くに郵便局と交番と村上さん言ってましたね。

病院の入口に靴洗い場ですか?
覚えないです。
でも靴洗い場があるということは土足で入ったのですね。
病院のイメージは、白樺の木と三角屋根、板張りの土足で歩ける廊下、薄暗くて玄関から入ってしばらく行くと、左に病室に行く廊下。
それだけです。
でもこれだけ覚えていればいいっか・・・

みなさん、関心あるのですね。
知らないことがたくさん出てきて、興味があります。

投稿: はな | 2012年9月11日 (火) 18時59分

村上さんへ

言われて見れば、桂沢ダムは上から流れるのを見たことないです。
そういえば長い排水溝のようなものが、ダム下流側にありました。
かなり長かったと思います。
そうですか。
でも昔もこんな色してたのかなぁ・・・
放水時にはサイレンが鳴っていたと思います。

本沢に採掘所があったとどなたかのブログで見ました。
でも私の覚えは夏になると、本沢の高い橋から下の川にみんな飛び込んでいるのを覚えています。
きれいな川だったと思います。
でもねぇ・・・
奔別川に垂れ流しですか・・・
ショックです。。。

投稿: はな | 2012年9月11日 (火) 19時08分

※川向町・錦町・山手町・西桂沢を含めても比較的市街地に近かった幾春別炭鉱。月見坂を起点としてまるで登山でもするが如く本沢町まで延々と続く奔別炭鉱は地理的条件が違いますね。戦前は坂下町(竪抗)戦後は新町(旧幾小)住まいが割と長かったので、街は通学路でもありましたよ。戦中の石炭は動力の中心で、勿論戦後復興の源で増産の掛け声で人も集まりました。私の父も鴻之舞金山からの転属です。
※朝鮮戦争特需・桂沢ダム工事(昭和32年完成)その年に市制施行、この間ダムに伴う離農が170世帯・鹿島建設の工事関係者の流入は大で割烹や色町も出来て賑わいました。三橋美智也の「三笠音頭」や「桂沢小唄」(照菊)「北海盆歌」巨大櫓の音色が耳に残ります。三笠市の人口のピークも昭和35年だそうです。私はこの年現在地に就職しました。ガス爆発のニュースは悲しかった。

投稿: ししちゃん | 2012年10月 8日 (月) 15時22分

ししさんへ

奔別は地形的に奥行きありましたね。
本沢の方から小学校に来ている子もたくさんいました。
子どもの足でどのくらいかかったでしょう?

小学校でマラソン大会があって、鳥居沢かな?本沢かな?走った記憶があります。

「北海盆歌」は知ってますが、「三笠音頭」はわからないです。
子どもの頃のお祭りは楽しかったです。
1人でも奔別のグラウンドまで行きましたもの。

投稿: はな | 2012年10月 8日 (月) 20時58分

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