信長によせて 音もなく近づく桶狭間
桶狭間の合戦から450年。
この戦いでさっそうと戦国デビューし、その名を世にとどろかせた信長は、戦国乱世を駆け抜けて行きます。
桶狭間の戦いには2説あります。
通説は善照寺砦を出た信長は、今川軍に気づかれぬよう大きく迂回し、田楽狭間で食事をとっている今川軍をめがけ奇襲をかけたと言う説。
その場所がここ。
ここは豊明市側で1937年に国定史跡に指定され、この園内の中には今川義元のお墓もあります。
坂の上にはりっぱな高徳院があり、門をくぐった本堂の近くには「今川義元公本陣跡」の石碑があります。ここは桶狭間山の東側にあたり、当時くぼ地となっていたと言うところです。
もう1つの方は名古屋市緑区にあり、桶狭間山の西側にあたり住宅内にひっそりと公園があります。
こちらの説は、善照寺砦を出た信長は迂回せず、そのまま山間を前進し、一気に攻撃を仕掛けたという説です。
その舞台がここ。
このあたりは古くから田楽狭間と言われ、「義元公の首洗いの泉」も園内にあります。
住宅に囲まれているのですが、なぜか異様な感じがします。人でもなく雰囲気からしてもあまり長居はしたくない感じです。
「義元公首検証の杉」が正面にあります。この長福寺からなだらかな坂を下った先に大池という池がありますが、ここには馬の鞍が血に染まった川に流れていたと言う鞍流瀬川がありました。
これがその大池です。合戦の後は血の色で赤く染まったという池です。この付近には今川方の瀬名氏陣所跡もあり、こちらの方が合戦の血の匂いがします。
ここに立っていると、斬り叫ぶ兵士たちの怒号が聞こえてくるようです。
今川義元軍は25,000 信長軍は2,000。
兵士の数から言うと信長に勝ち目はありません。しかし勝負を決めたのは家臣を使った情報力と信長が「うつけ」と呼ばれていた頃、尾張の国の隅々まで駆け巡り、地形を知り尽くしていたところにあるのかもしれません。
折りしもの豪雨をついての奇襲攻撃に、今川軍は張り詰めていた緊張感が薄らいでいたのかもしれません。
義元はあっけなく戦場から消え、信長の強気と自信が天運を引き寄せたのでしょう。
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コメント
おはようございます。
波に乗り前進させる信念は、やはり努力あってのこと、運を引き寄せるも偶然ではなく必然の結果と、思えます。学ばなくちゃ!
投稿: くらんぽん | 2008年12月16日 (火) 06時29分
おはようございます♪
3年前に有松に行った時に桶狭間に行ったのですが、1号線を通って行けばいいものを、今回裏道から行ったら迷ってしまいました。
伊勢湾岸道路ができ、周辺は分譲住宅地になっています。
この変わり様に信長はどう思っているのでしょうね。
3年でこんな感じなのですから、450年は気が遠くなります。
投稿: はな | 2008年12月16日 (火) 08時36分